寒すぎて体が動きません。


by hirajun-51
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記憶に残る橋本真也の試合

今回は橋本選手の思い出の試合を挙げていきたいと思います。
 
橋本真也対長州力

闘魂三銃士の中で一番最初にシングルマッチで長州に勝ったのは橋本でした。その後は何度もシングルマッチで当たっている二人ですが、私が一番思い出に残っているのは2001年1月4日の東京ドームで行なわれた試合です。新日を解雇されてゼロワンを立ち上げた橋本が新日のリングに再び登場し、長州力と対戦したわけですが、当時犬猿の仲と噂されたこの二人の一戦はまともな試合にはならず、お互いがほぼガチンコで殴りあう展開になり、ここで解説席にいたドラゴン藤波がリングに上がり試合をストップさせてしまいました。これが新日の歴史上とても有名なドラゴンストップなのであります。まあ何というか、決してプロレスの名勝負ではないですし、実際に会場のブーイングは凄まじいものがありましたが、男と男の果し合い的な感じがしてとても強く印象に残っている一戦です。(本音を言うと、心の中で私は「ドラゴン余計な事するなよ」と思っていた)

橋本真也対トニーホーム

まさかの連敗を喫したトニーホームとの異種格闘技戦。しかしこのトニーホーム戦の連敗により少しの間プロレスのリングから離れていた時に習得した技が水面蹴りでした。そして復帰して再びトニーホームと対戦した時はこの水面蹴りがポイントとなり見事トニーホームに雪辱しました。当時、私はプロレスが最強だと思っていましたので、レスラーがボクサーに連敗したのはとても歯がゆかったです。だからこそ橋本がトニーホームに雪辱した時は本当に嬉しかったですし、正直ホッとしました。これjはもう10年以上前の事なんですよね。懐かしい。

橋本真也対UWFインターナショナル

団体のプライドを懸けた戦いでした。団体対抗戦となった95年10月9日の東京ドーム大会で中野龍雄に完勝した橋本は翌年の4月29日の東京ドームで当時IWGPチャンピオンだったUインターの大将、高田延彦のタイトルに挑戦しました。私はこの頃高田がプロレス界最強だと思っていて(のちにそれは大きな間違いだったと分かったが・・・)この記事のコメントでさくまろさんが言っているように私も「高田!なぜ本気で蹴らないんだ。なぜ顔面を蹴らないんだ」とイライラしながらテレビを見ていた事を覚えています。ただ、やはり技の重みを考えると橋本の出す技はどれも説得力がありすぎでした。特にフィニッシュにつなぐ垂直落下式DDTは見た目でも破壊力抜群でした。最後は三角締めでベルトをダッシュした橋本でしたが、高田最強論者だった私は正直高田が負けるとは思っていなかったので、気持ち的にはかなりブルーになっていました。ただやはりこの頃の新日は勢いがありましたし、その団体で当時トップを張っていた橋本はUインター勢とは比べものにならない程輝いていました。

橋本真也対小川直也

橋本真也のプロレス人生を左右するきっかけとなったと言っても大げさではない小川直也との遭遇。初対決は97年4月12日の東京ドームでした。元々橋本はこのドーム大会でパンクラスやUFCで活躍したウェイン・シャムロックと対戦が決定していましたが、シャムロックが突然WWF(現WWE)入りを表明し、東京ドーム大会をドタキャンした為、プロ格闘家に転向宣言をしていた小川直也との対戦が急遽実現しました。この試合は橋本絶対有利と言われていましたが、大方の予想を覆し、STOからの裸締めで小川が勝利しました。その1ヵ月後の5月3日の大阪ドーム大会では橋本が顔面蹴りで小川からTKO勝ちし、リベンジを果たします。フィニッシュとなった顔面蹴りは寒気がするほど凄まじい衝撃でした。

3度目のシングル対決となったのは2戦目から1年8ヵ月後の99年1月4日東京ドーム大会でした。この期間中に小川は肉体改造に成功し、アントン総裁が旗揚げしたUFOのエースに成長していました。そしてトレードマークだった柔道着も脱ぎ捨てていました。この試合で小川はルール無視の暴走ファイト(ガチンコ?)を仕掛け、橋本をほぼ戦闘不能に追い込んだ。特に最後に小川が放った蹴りは第二戦のフィニッシュで橋本が小川に叩き込んだ蹴り以上に衝撃が凄かったです。(あれは本当に容赦なかった)
結果は無効試合でしたが、誰が見ても勝者は小川だったと思います。そしてこの試合の後にあの有名な「新日ファンの皆さん、目を覚ました下さい!」のマイクが小川から生まれたのです。

試合後は新日軍とUFO軍が大乱闘。飯塚にボコられた小川の子分(当時)の村上が病院送りにされ死にかけるというアクシデントが起こるなど、非常に後味が悪かったのですが、たぶん小川の暴走ファイトはアントン指令だと思いますし、よく考えるとこの頃からアントンが新日に対し余計なちょっかいを出してきて、新日がおかしくなり始めたのではないかと思いました。

4度目のシングル対決は99年の10月11日の東京ドーム大会でした。前回の試合後、小川の無法ファイトに対して怒った坂口社長(当時)はUFOとの絶縁を宣言していましたが、社長がドラゴン藤波に代わり、ドラゴンとアントンのホットラインから急遽、橋本対小川の4度目の対決が実現する形になってしまいました。社長交代はどう考えてもオーナーであるアントンの陰謀であり、アントンに対して「NO」が言える坂口より、優柔不断でアントンに対して「NO」が言えないドラゴン藤波の方がアントンも意見が通しやすいと考えたからだと思います。

私が橋本に対してイマイチ理解出来なかったのは、小川との初対決で敗れた後、アントンと決別し、脱ぎ捨てたはずの「闘魂伝承」のガウンをこの試合では再び着ながら入場した事でした。この橋本とアントンの関係はこのあともくっついたり、離れたりを繰り返すわけですが、やはり橋本にとってアントンの存在は、たとえどんな仕打ちを受けても師匠である事には変わりないのかなぁと思いました。

ドラゴンがレフェリーを務めたこの試合は小川が持っていたNWA世界ヘビー級選手権として行なわれました。試合内容は橋本が頭突きやローキックで小川を攻め込みますが、小川がSTOを連発して形勢を逆転させました。フラフラになりながらも執念で立ち上がってくる橋本に対してドラゴンは最後まで試合をやらせてあげたいという気持ちから、試合を止めようとはしませんでした。しかし、そこに立会人のアントンが登場して勝手に試合を止めてしまいました。(確かアントンはいきなりリングに上がってきて小川を殴ったような記憶が・・・)そして最終的にはドラゴンから小川のTKO勝ちを宣せられました。もはやアントンの言うとおりに事を進めるドラゴン・・・レフェリーの権限すらありませんでした。

「小川強し!」を印象付けたこの試合。それは今までブーイングが多かった小川に対して、試合後小川コールをするようになった観客の反応が全てを物語っていました。逆に橋本に対してはブーイングが浴びせられました。しかし、何度やられても立ち上がっていく橋本の姿にはプロレスラーの意地を見ました。私としては橋本対小川の抗争の中ではこの試合がベストバウトだと思います。


4度目の対戦の後、2000年1月4日東京ドーム大会で橋本は飯塚を、小川は村上をそれぞれパートナーにしてタッグマッチで対戦しました。この試合は村上の蹴りで飯塚が戦闘不能になるのですが、新日のセコンドがリングに上がり大混乱となり無効試合になってしまいました。しかしここでアントン総裁が登場して試合続行を宣言してしまいます。そして復活した飯塚が村上を裸締めで下し、橋本組の勝利となるのですが、どう考えても村上が飯塚を戦闘不能に追い込んだ時点で村上のKO勝ちだったと思います。

2000年3月11日横浜アリーナで行なわれた力道山メモリアル大会。イベントの総指揮を任されたアントンは何を思ったか橋本&小川組みを提案し、本当に2人のタッグチームが実現してしまいました。対戦相手は天龍&高田組が浮上していましたが、高田が辞退した為、天龍&ビックバンジョーンズ(外国人マスクマン。名前は忘れましたが元新日の留学生という噂)組みになりました。そして当日はとんでもない事件が起こってしまいました。
会場入りする橋本を村上が襲い、橋本は血だるまにされてしまったのです。普通なら村上は暴行罪で逮捕でしょうが、そうならないのがプロレスです。(こういう言い方はよくないですね)結局橋本は流血したまま試合をして、パートナーの小川との連係もなく、最後はジョーンズにやられてしまいました。村上に橋本を襲わせたのはアントンの仕業でしょうが、この時ぐらい橋本が不憫に思った事はありませんでした。ちなみにこの日アントンは、ジャニーズのタッキーとお遊びプロレスをして、フォールを奪われていました。


5度目のシングル戦。橋本は引退を懸ける事になりました。アナウンサーの辻よしなりの自伝を読むと、引退を懸けなければならなくなったのはテレ朝からの申し出だったらしいです。要するに、当日にゴールデンタイム放送をするテレビ局としては何か大きな目玉が欲しかったという事です。これが「橋本真也34歳負けたら即引退スペシャル」なのであります。
私はさすがに今回は橋本が勝つだろうと思っていました。それは別に八百長とか言うのではなく、長年プロレスを見てきた人間の勘が絶対橋本が勝つと予想させたのです。
運命の2000年4月7日東京ドーム大会。この日私は新卒として入社した会社の同期と新宿中央公園で花見をしていました。もちろんテレビ放送は録画して、家に帰ってからゆっくり見ようと思ってました。そうしたら花見の途中で大学時代の友人から電話があり、そいつは私が電話に出るなりいきなり「橋本が負けちゃったよ~。(実況の)辻さんも泣いているよ~」と発しました。それを聞いた私は「てめ~!俺はビデオを録画して後で見ようとしていたんだよ~ 結果を言うなオラ~!」と取り乱しましたが、すぐに冷静になり、負けたら引退の事を思い出しました。

家に帰ってから録画したビデオを見ました。坊主頭になりこの一戦に懸ける意気込みを感じさせた橋本はローキックやDDTなどで小川を追い込み、STOに対しても喰らわないように踏ん張っていましたが、結局最後は小川のSTO6連発の前にKO負けしてしまいました。
意味が分からなかったのは悲壮感が漂うリングに登場したアントンがいきなり必殺のダー!をやり、締めてしまった事です。これにはさすがに観客も引きまくり、ダ-!に参加した観客はごく僅かしかいませんでした。アントンことアントニオ猪木、あいつの頭の構造はいったいどうなっているのか本当に分かりません。

橋本はこの試合のあと、1度は引退しますが、ファンの復帰嘆願を受けて引退を撤回し、2000年10月9日の東京ドーム大会で復帰を果たします。しかし試合後に橋本は独立を宣言して、11月13日付で新日本プロレスを解雇となり新団体「ZERO-ONE(ゼロワン)」を設立。そして2001年3月2日に元新日の大谷晋二郎らと共に両国国技館で旗揚げ戦を行なうのでありました。

小川戦に関しては書き出したら止まらなくなり、かなり長文になってしまいましたが、この小川との抗争により、橋本のプロレス人生は大きく変わったと思います。この抗争がなければ、独立してゼロワンを旗揚げする事はなかったかもしれないですし、ハッスルだって誕生しなかったかもしれません。そういう意味では、まさにプロレス界の歴史を変えるきっかけとなった抗争だったと思います。
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by hirajun-51 | 2005-07-15 23:39 | スポーツ